目次
[ 発達障害、家庭にこもる子どもとソーシャルワーカー ] 1
[現場に即した養成課程、ポストごと採用、専門特化した働き方] 4
[ 専門職としての距離、なぜ親子と一緒に旅行をしたりレストランに行くの? ] 9
[ 施設でも里親でもなく予防的な在宅支援と自宅措置 ] 18
[ なりたい親になるのを支える保健省の「親を描いてみて」] 19
[ 発達障害、家庭にこもる子どもとソーシャルワーカー ]
質問者[障害デイケア]:
誕生後、入院していた子どもが家に帰って、発達障害があって、どんどん家から引き出さないといけないけど、小学校入学まで家の中にいて、騒がしかったりして虐待予備群ということが日本ではたくさん見られるのですが、フランスではいかがですか。
パボ:
まず最初に入院をしていた。それはフランスでかなり気をつけています。なぜかというと、親が子どもとアタッチメント形成するっていうのは決して自動的に行われるものではなく、兄弟やお父さん、親戚を含めて、一緒に過ごす時間が少し後になるということはアタッチメントの形成にかなり影響があるとわかっているからです。入院中のアタッチメント形成という点でもっとケアが必要かもしれないというのが1つ。
2つ目の点が、家族が閉鎖的で子どもが外の、他の子どもたちと一緒に触れ合うことがないということについては、もうそれだけで「心配な要素」として報告するような内容です。フランスでは、「一人の子どもを育てるのに村一つ丸ごと必要」と言われるぐらい、家族だけでは足りないと考えられています。子どもが家族以外と触れ合わないということを閉鎖空間への閉じ込めと言います、近隣の人が訪ねてきているとも限らない、同じ月齢の子どもたちと定期的に会わせているとも限らない、そういった場合には積極的にそこに入っていって、アラートが必要な状況としてリストにあげます。子どもがよく叫んだりするとか、子どもが落ち着きがないとか、それは子ども自身が問題があるわけではなくて、この家族の中で問題があるということを子どもがサインとして発している状況です。叫ぶのは子ども自身が問題があるわけではなくて、今の家族の状況に対して子どもがサインとして発しています。
3番目の点は、発達障害は、「障害」という言葉を日本語で使っていますが、フランス語で障害という言葉を使わないので、障害と認識されていない。もちろん生まれた時から、歩けないとか障害があることはあるけれども、精神的だとか知的だとか発達だとか、子どもは真っ白なページで生まれてくるというふうに考え、一般的ではないような行動をしたり、反応をしたりするというのは子ども自身が「今自分が受けている教育について、うまくいっていないことがある」というサインを行動で示していると考えます。多くの場合は愛情に関することです。だけれども、発達障害、発達問題といった形で表現することによって「親は問題ない、問題なのはこの子ども」という認識を親がする可能性があります。子どもは全くの真っ白な状態で生まれてきているから、今サインを出しているということは、その子どもが受けている教育に何かしら変えるべき点があると考えます。
質問者[障害デイケア]:
そういう捉え方、行動の問題っていうか、彼らは真っ白で、その中に環境が色々と加わって反応が出てしまうっていうところ、家族が孤立しないように周りが見ていくっていうこと、どんなに脳の障害とかそういう課題があったとしてもしっかりやっていけばかなりのところが改善できていくなっていうのは私も感じてるので、日本にはまだまだ孤立した家族があり、それを生じさせないための仕組みをどうしたらいいかと自分自身も発信というか考え直していけるように取り組んでいきたいと思っています。
パボ:
今現在では誰かに会ったり、誰かと人間関係を築くことなく、仕事をインターネット上で進めたり、行政手続きさえできるようになっています。けれども、この方向性は、自然な人間としてのあり方から反対の方向に向かっている部分があります。なぜかというと、人間というのは社会的な生き物で、エデュケーターが家に行って、その人の存在を認めて、その人に話しかけて、その人に関心を持って「一人じゃないですよ、困ったことがあっても話していいんですよ」と言う、 そういった人間味をもたらすということが、すでにそれだけで解決策の一つだと考えています。人の本来の姿により近づけるような関わり方ができるからです。孤立というものは人間にとって非常に破壊的な影響があるものだと私たちは考えています。
家庭に在宅支援という形でエデュケーターが通うことは、非常にシンプルに一般的な行動をしているだけで、それ以上のものではないかもしれないんですけれども、Netflixを見ることに慣れているような状況から、1日の終わりに、自分が疑問を持ってることや、やりたいことや、そういったことについて話し合うような時間をなくしかけてるような家庭もあるので、そこにそういった時間を取り戻す。そのことによって、もしかしたら、人間らしさから離れたような生活に慣れている家庭にとって、根本的な人間の結びつきだったりふれあいだったり、そういったものを取り戻させる。そういう効果があるのではないでしょうか。
[ フランスの社会的問題意識とソーシャルワーカー ]
質問者[研究者]:
日本の子どもを相手にしたソーシャルワーカーと、エデュケーターの仕事の一番違う点は何ですか?
パボ:
私自身が動揺していることがあります。それは、日本のみなさんとのやりとりをする中で、人間的なこと、人間の本性のようなものだと自分が考えてきたことは決してユニバーサルなどこでも同じことではなく、文化的だったりヨーロッパ的だったりするものなんだと気づかされたからです。人間がどのように動くか、反応するかということもおそらく国によって違うんだろうと気づく機会になりました。現在もうフランスで意識されることが減ってきているんですけれども、フランスは2000年もの間、キリスト教の国だったことを忘れてはいけないということに気づきました。それは、昔本を読むことや書くことができたのは教会の聖職者たちだけだったので、どの本を選んで残すのか、どの文章を残すのか取捨選択していたのがキリスト教の人たちだったわけです。彼らが取捨選択した考えや文化がメンタリティとして継承されてきたという背景があります。なので、例えばキリスト教は愛の宗教と言われていますが、叩かれたとしてもその人に優しくしなさいだとか、隣人のことを愛しなさい、どんな隣人であったとしても愛しなさいだとか、だけどそれは、自分が優しいから自分が寛容だからではなく、徳を積んだらその後天国に行ける、つまり現世よりも自分が天国に行くということの方が大事なので、今やってることは自分が優しいからではなく自分が天国に行くための準備。現在の人たちは「そんなことはない」と言うかもしれないけれど、それが根強く残ってるっていうことを(日本との比較の中で)感じました。なので、貧困や病気や高齢者について皆が関心を持つというのは人間の自然の行為だと思ってたんですけれど、おそらくキリスト教の背景から来たものだと思います。比べると、日本からの質問の中で「それは意味があるのかどうか」ということに関心があると感じるからです。フランス人はソーシャルワークに意味があるかどうかではなく、当然人間としてしなければいけないことだと感じています。そこが日本との対比として感じたことでした。
質問者[研究者]:
キリスト教が世俗的な職業であるソーシャルワーカーの行為の説明みたいなものになってくるとちょっと日本の場合にはもっと違う視点や方面から考えないとフランスと全く比較ができない。エデュケーターのモチベーションが、キリスト教の文化に基づいているということは本当に驚きです。もっとフランスといえば社会主義、ヒューマニズム、ヒューマンライツや子としての大切さとかかと思いましたが、そこはパボさんいかがでしょう。
安發:
路上エデュケーターにしても、なぜその活動がボランティアではなく全国の組織になったかというと、子ども専門裁判官や小児精神科医の人たちが立ち上がったからなんです。その人たちが、今でも、テレビに出て「この法律を改正しないと子どもたちの安全を保障できない」などと主張しています。日本は裁判官がテレビに出て制度の批判をしたり、県に対して要望書出したりしないじゃないですか、私自身関心がある点でした。法改正を進めたのも実際に現場を担っている人たちなんです。上からいい制度が降ってくるわけではなくて、現場を見ている人たちが自分たちで変えていかなければと国に訴えている。
パボ:
もちろん人権や社会主義も現在に大きな影響があるのですが、石が積み重なっていったとしたら一番下の部分にキリスト教がある。ただ現在は、ソーシャルワーカーにしても民間団体にしても99%は無宗教です。社会主義に関しては70年代から多くの学者たちは社会主義的な考え方をしていて、連帯の意識を生んだということは確実です。ただ現在は、新自由主義や、何もかも経済的な効果やお金に換算するような人たちが出てきています。けれどもそれよりもフランスの社会の中に根強くあるのは、連帯感が横方向に強いということです。自分が所属している会社や組織の上司よりも、他の会社に勤めている自分と同じ立場の人の方を仲間だと思う。それはマルクス主義や、世界中の貧困者が一緒に革命を起こそうという考え方にも近いんですけれども、私自身例えばスペインだとか他の国に住んでいる労働者の方が、毎日顔を合わせている職場の偉い人よりも身近に感じているし、共感する。そういった意識があります。
[現場に即した養成課程、ポストごと採用、専門特化した働き方]
質問者[児相所長]:
児童福祉に関わるマンパワーについて日本とフランスではどのくらいの差があるのでしょうか。
安發:
まず国家資格を取得するために3年間一週間おきに現場と座学を繰り返し、4つの職場で実習生として採用されなければならない。実習生には給料を支払うし一年近く雇用するので選抜がある。資格を取るのにかなりエネルギーが必要。入学するのにも6倍倍率があります。福祉についている人の専門性とコミットがかなり高い。
あとはポストごと採用なので、児童相談所にしても、県の規定はワーカー1人に子ども23人、そうすると十数家族、人気のないポストは人を採用できないので適正化されていきます。
さらに、日本の児相は虐待通報の対応や里親とのやりとりやいろんなことを同時にしていることがあるのですが、フランスはそれらが全て違う部署の仕事で、裁判官が保護を決定して初めて、子どもに合った施設や里親選びという時点で児相に役割が回ってくる。家庭を支援して調査をするのは別の部署、保護が必要か判断するのは子ども専門裁判官なので、児相に親が怒鳴り込んでくるということもない。保護が決まった場合に、その先の経過を継続的に見届けて親の支援もおこない一年後の裁判までの子どもの権利を保障するのが児相です。短期措置しか原則ないことになっているので、そこが大きな違いです。仕事自体も、日本よりシンプルに専門特化させています。
[決める人と支援する人の役割分担]
質問者[児童精神科医]:
フランスの児童福祉の層が非常に厚いと噂は聞いていたんですけれど、子どもの精神科を20年近くやっているので児相の職員さんと交流する機会がよくあるんですけど、いつも本当にたくさんのケースを抱えて疲れ切ってらっしゃるような職員さんもたくさんいらっしゃいますし、私たちも子どもを保護する場面になると、親御さんから怒鳴られたりというようなこともあります。フランスは子ども裁判官がついてくれていて、司法面をそこが担ってくれてるんですね。日本だとそれも児相の責任みたいになって親御さんが児相を攻撃するっていう場面がよくありますし、私たち児童精神科医も親御さんから攻撃されることがあるんですけれども、その子ども専門裁判官っていうのがしっかり司法の枠組みで児童福祉全体の職員を守ってくれてるっていうようなイメージをつかむことができました。
安發:
子どもの権利が守られているか保障する役割があります。裁判官は毎回裁判の前に15分間は子どもと一対一で話をして、子どもも例えば裁判が近づいてきたら自分の信頼する人と一緒に手紙を書いて裁判官に伝えたいことをまとめたりします。また、この施設で子どもの調子が悪いとか、この在宅支援を受けてこのエデュケーターのもとで子どもの調子が良くなってるかどうか、そういうことを見てるので、裁判官が子どもと受け入れ先の変更を決めたり、担当エデュケーターや担当する在宅支援機関の変更を決めることもあります。なので、質の高いサービスのための競争にもなるし、質を保つ要因にもなっています。95%が裁判官の判断を経て保護されているので、親としては攻撃的な態度を専門職にとったりしたら親が不利になるだけで、安心の評価が得られにくくなります。なので怒る親がいるようなシーンを目にする機会はありますけど稀です。お母さん自身も裁判官に手紙を書いたりします。児童相談所だとか施設だとかに攻撃したところで、親にとっては施設に近寄ることが禁止されるくらいの結果にしかなりません。そういう点で、支援者は支援に徹することができる仕組みになっています。
[児相の負担を減らす工夫]
質問者 [児相所長]:
地域に、市町村に、基礎自治体に、住民の近くに、問題が大きくなる前にエデュケーターがいるといいのにな、と思いました。日本ってものすごく児相に全部降りかかってくるような感じで、多くの仕事になってるなと思ってます。今度令和7年から一時保護に関して司法審査が入ることになるんですけども、結局それも児童相談所が裁判所の方に書面を出さなきゃいけないということで、児相の仕事がまた増えるという。全然こう役割分担ができてない中で、児童相談所の権限ばっかりが大きくなってくるし、仕事が増えてくるというイメージがあります。結局、児童相談所は福祉の支援者なんですけれども、子どもと話をする時間ですとか、家族と話をする時間っていうのがどんどん減っていってしまうっていう現状に今なってます。そういうのを考えた時にも、フランスのようにエデュケーターという国家資格の専門家の人が本当に住民の近いところで子どもの声を聞いて、家族にそれを届けて家族と同じビジョンに向かっていくってところ、エデュケーターさんがこう介在してるっていうこの仕組み自体がとても素晴らしいなと思っています。
日本では市町村もミニ児相化しちゃっているところがあるので、そうではなくて、やっぱり市町村ですとか、児童家庭支援センターですとか、地域にいる専門の方が支援のスタンスとしてエデュケーターと同じようなスタンスで家族と接していくようになってくるといいのかなと思っていて、今回のパボさんが書かれている、ターラの絵本ですよね、この絵本にはおそらくエデュケーターのエッセンスというかマインドみたいなのが、きっと詰まってるんじゃないかなと思うので、漫画という形で多くの支援者に届くようになると共感を持って、エデュケーターさんと同じようなスタンスで地域で支援を展開できる人が増えてくれると嬉しいなと思ってこの活動に期待してるというところです。
安發:
フランスの場合も、児相の負担がすごく多いという理由で例えば「シェルター」を作った経緯や、「ティーンエイジャーの家」という誰でも子どもたちが親とかの同意も必要なく心理士さんに話をしに行けるところも、やはり児相の負担を減らすためという経緯でできました。児相の一次保護所を経て、結局2週間以内に家に帰ってくるような子どもたちがたくさんいる、特にフランスは10代の子ども自身が望んで家を出ることが多いので、仲裁を受け戻ることが多い。そのために2週間児相の人たちが対応するよりは、手続きを簡易化して、子どもが家を出たかったらまずはシェルターに保護し、安全なところで子どもをかくまって、子どもは子どもでデュケーターと話して、別の場所で親もエデュケーターと話して、その間の調整をして、一緒に暮らせるかそれとも別々にしばらく暮らした方がいいか必要な支援は何か模索する。
[エデュケーターの必要性]
パボ:
こちらも同じ問題があります、フランスも全く完璧ではないですし、行政化が進んで書類が増えて、仕事が増えています。インフレーションの中で、エデュケーターの仕事は収入の少ない仕事になっています。ちょうど今朝のニュースでパリ近郊のエデュケーターのポストのなんと7%もが空きのままだと。地方に移動した人がたくさんいて、違う仕事についている人もいる。エデュケーターがいるっていうことが非常に大事だということを、お金を出している国だとか偉い人たちに十分理解されてないので、そのことを伝えていかなければいけません。私たちはあまりにテクノロジーに慣れていて、テクノロジーの中では生産性ということが非常に求められるわけで、どんどんみんな時間がなくなって、時間がなくなっている中で、例えば子育てをしていたり、人間と付き合っていたりしているわけなんです。
でも思い出してください、赤ちゃんたちは、最初は単なる消化器なわけです。何かを食べて何かを出す。そこから人間を作っていかなければいけない。でも人間を作っていくためには人間が必ず必要です。そしてこれは、文化的ではなくて人間的なことだと思うんですけれど、子どもに笑いかける人間が必要です。そして、そのことについては減らすことができません。人間をつくっていくためには、人間が周りにいる必要がある。子どもに笑いかける人がいる必要がある。それを減らすことができないということは、私たちが言い続けなければいけません。子どもと一緒に5時間遊ぶ必要があるのを、数分で済ませられるようなものではないってことも、言っていかなければいけません。つまり、エデュケーターの仕事は減らすことができないんです。なので、5時間家族と一緒に過ごすことを減らすべき、または5時間過ごしただけの効果があったのか?そういったことを言うような偉い人たちがいたとしたら、私たちが作っているのは機械でありません人間ですということを言い続けてください。
質問者 [児相所長]:
本当に必要な存在だと思ってます。
[ 親に伝えること ]
パボ:
子どもと一緒に過ごす時間を減らすことができないという話をしたんですけれども、それは専門職だけではなくてもちろん親も同じです。エデュケーターとしてよく出くわす問題で、家族と話し合わなければいけないこととして、教育的な番組を見せてるからと言って教育役割を画面が代わりにしてくれるということは決してないということを話し合う必要があります。たまに顔を合わせ、挨拶をするぐらいで、親役割ができるというものではないからです。教育をするということは、自分の目の前にいる人間とお互い理解していけるためにやり取りをしていくということが教育です。目を合わせるだとか、相手の感情と自分の感情のやりとり、特に笑顔というのは脳の発達のまず基本、最初の部分は、笑顔を交わすことです。自分が笑いかけて子どもが笑いかけてくる。それを画面だったりテレビだったりで、代替できないということは、エデュケーターとして常にぶつかる問題です。
[ 公的機関、民間機関の役割分担とエデュケーター]
質問者[スクールカウンセラー]:
エデュケーターは国家資格だけど、全員が公務員ではないということでしたが、公務員のエデュケーターが民間のエデュケーターをマネジメントするような形での協業になりますか?公務員だけでなく民間のエデュケーターの雇用条件は一緒ですか?
安發:
フランスの福祉は3分の2を民間が担っています。民間は専門的な団体で、施設だったり、在宅教育支援だったり、里親支援機関だったり、そして公的機関は児童相談所だったり福祉事務所だったり保健所だったり、コーディネートする役割です。なので、まずは公的機関が子どもたちのいるところ全てに配置されています。日本も同じなのですが、産科でまず親の調子がいいか、親が妊娠してることについて悩んでないかなということを見るのは産科のソーシャルワーカーと心理士です。それから先は、産科で心配があったら保健所が、妊婦と3歳までの全ての子どもの状況を小児看護師が把握しています。保育園の子どもたちの状況を見て回ってるのも、保健所の児相保護専門医。全ての保育園を回って毎週1回子どもたちに話しかけて子どもたちの心理だとか身体面で心配がないかを見ています。そんな中でちょっと心配だという時に、週何回か専門職が家に通って家の中の状況を支えてた方がいいよという時に初めてエデュケーターが出てきます。
公的機関、児童相談所や学校や福祉事務所は、民間も含めて全てのサービスをケアマネのようにコーディネートする役割です。そして専門的なサービスを提供するのは民間団体です。エデュケーターは児童相談所にもいるし、民間の施設や在宅支援機関にもいます。担っている役割は、コーディネーターと継続的支援で違いますが、看護師や助産師と同じようにどこで働いたとしてもエデュケーターはエデュケーターです。
[ ソーシャルワーカーとエデュケーターの役割分担 ]
質問者[スクールカウンセラー]:
日本では県レベルの児童相談所が、市町村レベルの子ども家庭支援センターの方向、例えばケースマネジメントをする形になってると思うんですけれども、そこがうまくいってないような気がして、スクールカウンセラーとして働きながらうまくいってないように思っていたので、エデュケーターという形だとうまくいくのかなと伺ってみたかったんです。
それと雇用条件のことで、フランスでもあまりお給料的には良くないとおっしゃっていたのでなるほどと思ったんですが、日本でも結局スクールカウンセラーとスクールソーシャルワーカーはだいたい会計年度任用職員で1年ごとに契約が更新されるという形ですし、ワーキングプアを作ってるだけっていう感じがするのでちょっと聞いてみたかったんですけど。
安發:
はい、ありがとうございました。エデュケーターというのは、児童保護と障害と成人の自立支援を担っているので、ソーシャルワーカーの中でより専門特化したというような形ですね。ソーシャルワーカー資格もフランスにもありますが、世の中にどういったサービスがあるのか、こういった場合にはどういったサービスが適してるのかを選ぶのがどちらかといえばソーシャルワーカーで、そして継続的に同じ家族にずっと関わっていくのがエデュケーターという役割分担になっています。ソーシャルワーカーは民間も含め家族に適した連携先をつなぎコーディネートします。日本もソーシャルワーカー資格の上にさらに家族と専門的に関わるような資格を積み重ねるという方法も考えられるのかなと思っています。しっかり継続的に家庭に入って子どもの権利が保障されていて皆の困りごとが解決されていっているかみることができるようにです。
フランスの場合は期間限定の雇用というのは、相当な、例えば産休代替とかそういう時にしかないので、基本的には無期限です。
スクールソーシャルワーカーだったとしても、必ずチーム制だというのもすごく大きな違いです。スクールソーシャルワーカーだったとしても、必ずチームの何人かで、ケースの対応は一人ではしないというのが大きな違いです。
[ 専門職としての距離、なぜ親子と一緒に旅行をしたりレストランに行くの? ]
質問者:
エデュケーターが多いこととともに、食事をしたり、旅行に行ったりすることもあるという状況に驚きました。適切な介入が期待できることで、大事な時間を安心して楽しく過ごせることができ、素晴らしいなと思う同時に、リスクを予防するための対策もなされてるのだろうと思います。普段親子と連絡を取り合う時のルールがあると思いますが、個人の電話番号を伝えているのか、電話の繋がる時間を決めているのか。
安發:
仕事の電話と、パソコンはもちろん全員持っていますし、例えば施設から帰った直後だけれどもまだ安心ではない、そういった期間は24時間誰かしらが、担当を決めて電話に出られるようにしてるっていう所はあります。ただ例えば路上エデュケーターの人に夜中に電話がかかってくることがあるか聞いたら、相手にも相手の生活があるって事はどんな若者たちも知ってるから1回もかかってきたことがないという風に言ってたりはしました。あとは、ネットエデュケーターとかはいたりするので、必ずしも一人じゃなくて、他にも相談先を持ってるって事もあると思います。
質問者[スクールカウンセラー]:
普段連絡を取り合う時のルール何ですか、教えてください。「今までよく生きてきたよね」っていう状況で高校生になってくる子たちと、公立学校なんですけれどもたくさん会ってるんですが、やっぱり心配だからということで、個人の電話番号を教えてしまうソーシャルワーカーがいることから、大変なことが結構起こっています。夜中にかかってくるからどうしても対応できなくなって、いきなりアドレスを変えてしまうとかですね、電話番号を変えてしまう。それって、命綱を投げておいて、それを握られた時に手を離すというとても恐ろしい行為だっていうことで、問題になっています。なので、枠組っていうのがある程度大事というふうに議論されているところなんですけれども、先ほど夜回り先生がたくさんいるっていうような状況だということは、個人の連絡先を教えることがあるのかどうかってことと、その場合「何時から何時までだったら電話に出られるよ、それ以降は出られないからね、それ以降だったらこちらの相談場所にかけるとつながるよ」と、そういうことを伝えているのかどうか。
パボ:
昔はある一定の専門職としての距離というのを保たなければいけないと習った時期がありました。その時期に教育を受けた人たちは「自分の子どもはどうしてるの」「自分の子ども時代はどうだったの、幸せだったんでしょ?」そういったことを子どもに聞かれた時にどう答えればいいのか戸惑うような時代がありました。現在は愛情を与える、愛情を相手からも与えられる、愛情を自分が注ぐということが非常に大事だと考えられるようになっていて、自分が愛情を与えたら、相手からも期待されるわけで、だけれどその中でしか関係性を築いたり何かが変わっていくってことはできないと考えられています。関係性を築く中で相手も変わるし、自分も変わる。そのことを受け入れなければいけない。何かしらが変わっていくっていうことはお互いにとって変わっていくことなので、自分は自分のままだけど、あなたは変わりなさいというようなことはありえません。例えばこの漫画の中のターラとの関係で私自身もすごく大きく変わった部分があります。
なので、距離の取り方について、例えば電話についてはただシンプルに話してみればいいんじゃないかと思います。夜電話してくるとしたら、夜は私は仕事時間外だということはわかるでしょって話せばいい、そしてそれでも明日の朝どうしても待てないような状況だったらそれはエデュケーターではなく警察に電話するべきことなんじゃないかと。私も昔は仕事の電話が徹底されてなかった時に、自分の電話番号を渡したことがあったけれど、夜中に電話をかけてきた人はいなかった、それぐらい人というのはある程度、節度があるものだと思います。そして、もしそれができないような人がいたら、話せばいい。おそらくあまりにしっかりした関係性を築いてしまうのが怖いから、どういった距離感であればいいかって悩むのではないかと思います。
自分が相手のことを心配したり愛したりしたら、相手からも返される。そしてそれを自分が受け取れるだろうかという心配があるのではないでしょうか。自分が愛情を注いだら相手からも注がれることが怖いから距離を取らなければいけないのではないか。相手とどうすればいいかってことを話せば解決できるのではないかと思います。
子どもや家族と食事をしたり、一緒にお出かけをするというのは口実に過ぎません。なぜかというと、やっぱり一緒に過ごす時間というのがすごく大事だからです。そして例えば向き合って座って「はい、何が悩みなのか話してください」という風に言ったところで、おそらく虚しいやり取りになるでしょう。けれど、子どもが食べてみたいものを食べに行ったり、子どもがしたいことをしに行ったり、美術館など無料なものはいくらでもある。子どもがしたいことを一緒にするっていう、その中で特に私が素晴らしいというふうに思っていたのは、車に子ども4人乗せて子どもたちがしたいことをしに行きます。その移動中の会話の豊かなこと。それはエデュケーターの私と、助けなければいけない子どもたちだとかそういったものではなくて、あなたと私は同じ人間としてすごく楽しい時間を過ごしてるよね、っていう今楽しみを分かち合ってるよね、で私自身がその楽しいって感じてるのも子どもと過ごすことをその楽しんでる風にしてるんじゃなくて、本当に今君たちといるのが楽しいんだよ、っていうことがすごく大事なんだというふうに思ってます。
その車の中で話が盛り上がるのは、やっぱり向き合ってるんじゃなくて、並んでいるから。そして一緒にその子どもたちがしたいことをして、いっぱい笑った後の帰り道の車だからだからこそ出てくる話があって、そしてその時、私は君たちと今日こんなことして、すごく楽しかった、すごくいい時間を過ごしたって。君たちと出会って良かったってこと、やっぱり伝えるって事は非常に大事だというふうに思ってます。子どもたちは常に、このエデュケーターは自分のことが好きなのかってことを疑問として持ってるからです。ターラちゃんの絵本の中でも何回も出てくるんですけれども「この関係性いつか終わるの?あなたも私のことを見捨てるの?私はあなたのこと本当に大好きになっていいの?」っていうようなことをターラがいろんな形でパボに問いかけるんです。
確かに施設の中で一日中子どもと遊んでそうすると子どもたちに「エデュケーターっていい仕事だね、遊んでるだけじゃん」っていう風に言われるんです。でもそれは、「遊んでるだけじゃん」って言ってる裏に実は隠された質問があって「お前は仕事だからここにいるの?それとも本当に自分たちといるのを楽しんでるの?」っていうようなことを実は聞きたくて、いつもこの質問を投げてくるんです。そのことについては、やはりオープンにしておく必要があって、必ず言わなければいけないのは、自分が今笑ってるっていうのは本当に心から嬉しくて笑ってるんだっていうことと、君自身がすごく愛嬌があって素敵なやつだから、自分は君と一緒に過ごすのが楽しいんだよってことは伝えなければいけないというふうに思ってます。なので、なんで食事をするのか、何でお出かけをするのか、何で旅行するのか、っていうのは教育的費用として確かに用意されてるんですけれども、その教育的な関係性を築くために非常に有効なものだというふうに考えられてるから、この費用が出るっていうことですね。
[ 支援者はどんな役割を担うことができる? ]
質問者:
パボさんとターラちゃんとの関係作りっていうのが、なんだかただ単に仕事以上のものがあって、そこがこの漫画に現れてるっていうのがこの漫画の魅力だし、エデュケーターの魅力だなんて自分は感じてるんですよ。
安發:
そうですね、私は生活保護ワーカーをしていた時に2週間に1回ぐらい子どもたちと会っても、家庭内でうまくいってなかったとしても知らないことも多くて、親が納得しないと施設にも入れられなくて、で知らない男性を頼って連絡がつかなくなって、どこにいるかわからなくなるっていう女の子たちがたくさんいて、2週間に1回話したぐらいじゃ、「あの人に話したらなんとかなる」という存在にはなれないし、家から出たくても行ける場所を提案することもできないくらい使えるカードも少なかった。
例えば5歳の女の子がいて、お母さんは精神疾患で調子が悪い時は全然話もちゃんと聞いてくれないような人でした。いつもポケットにプレイモービルの女の子を4体持ってて、その4体を出して人形遊びするのが、自分と、精神疾患のお母さんとエデュケーター2人っていうのがすごく印象的で、この子にとっては、自分を見守ってくれる大人が3人いるんだ、で、自分が何かあった時に3人が反応してくれるっていうような関係性なんだということが、やっぱり全然、距離感が違うなっていう風に感じました。その子の場合も、お母さんは精神疾患で、本当に調子がよくなくて、話もちゃんと通じない時があったんですけど、それでも子どもが安心して育つことができる中で、お母さんもリラックスして、お母さん自身も調子が良くなって、4歳ぐらいから支援が始まって、もう6歳7歳では完全に終了したんです。でも日本だったら多分、施設措置になってたんじゃないかなっていうふうに思うんですよ。でもお母さん自身も「子どもがいなかったら自殺する」っていうぐらい、すごく子ども以外何もないと考えている人だったし、子どもも「学校どうだった元気?」っていう風に聞いても最初に返すのは「今日はお母さん調子いいみたい」って本当にお母さんの心配ばかりして暮らしてたんですね。
そういった時にやっぱりエデュケーターの存在って大きいなと思いました。子どもとお母さんをつなぐ役割だったり、子どもとお母さんという家族を社会につなげる役割だったり、それが仕事なんだけど、仕事以上のもので関わってるのがパボさんだし、この漫画にエッセンスが詰まってるんじゃないかなって感じたんですよね。日本でエデュケーターの話をすると、「家庭内で教育のことだとか口出しをしてほしくない」というような反応がすごくあったので、関わり方によってはできることがあるよ方法があるよっていうことを、漫画だったら伝えられるかなという形で、今回紹介したいと思ったんです。
[在宅教育支援にどんな効果が期待できる?]
質問者:
今まで漫画を出してて、いろんなエピソードがあったと思うんです。その成果が、おとなにしろ子どもにしろ、パボさんにいろんなエピソードがあったと思うんですけど、それをちょっと発表していただきたいなと思うんですよね。やっぱり日本に出すにあたって、どんな成果が出るかっていうのを今までの過去の例として教えていただくとありがたいのかな。ちょっといろいろ自信持っていろんな人たちにも紹介できるのかなと思うんですよね。
安發:
フランスでなぜ在宅支援を進めるかという背景にあるいくつもの研究のうちの一つなんですけど、結局、虐待を受けるという極端な経験をしてしまうと、それから先の影響が非常に大きくて、それよりはそのような経験をしない子どもを増やした方がいい、そういった状況を避けた方がいいっていうのが考え方です。この研究は、4歳までに保護された子どもを成人まで追跡を調査しています。129人を21歳まで調査する。そうすると1/4しか「良い経過」をたどってないんですね。1/4っていうのは、元気に育って21歳で自立して暮らしている。半分は「悪くはない」、つまり困難な点はあるが福祉が必要というほどではない、だけれども学業の継続は断念してたり、交友関係が非常に狭かったり、不安感や自尊心や、自信の低さがある。そして1/4、この黄色い人たちは「悪い経過」つまり 21歳の時点ではまだ福祉を利用してて、何重もの健康の問題があったり社会の不適応がある。良い経過をたどった4分の1の良い経過をたどった子どもに共通するのは、リスクにさらされた間が非常に短くて、10ヶ月以内には保護されている。つまり誰かが「この子のこと心配なんじゃない」って気づいてから保護するまでに期間が短いってことです。さらに、保護された時の親子関係の問題が深刻ではなかった。で、悪い経過をたどった1/4、つまり4歳で保護されてから21歳までずっとケアを受けてもまだ状況が悪い子どもたちについて共通する点は、リスクにさらされた期間が長くて深刻に悪化した親子関係を経験してる、つまり叩かれたとかですね、そしてケアからキュアに移れず支援者を攻撃し続けてる。そして良い経過とと中間の1/2に比べて2.2倍もの医療費と措置費が必要、つまり影響はかなり先々まで続いてるんだってことです。
このような研究はいくつもされてるんですが、1/4が良い経過、 1/4が悪い経過、1/2は不安定、ってのは一致しています。ちなみに日本の場合は、今都心部だと、措置費が1人当たり1000万円、年間かかっているそうです。且つフランスのように原則短期保護しかしないっていうわけではないので、何年間も1000万かかり続けるっていうこともあります。それに対してフランスの場合は、在宅支援だと月5万4000円、つまりエデュケーターが家に来たり一緒に何かをする時間だけです。比べて保護だと、月70万円なので、在宅教育支援が必要な期間全部足したとしても、数十万円というぐらい違いがあります。
*詳しくはhttps://akikoawa.com/prevention-is-better-than-cure/
予防の方が保護に比べてコストが低いという部分も評価されていて、予防を十分すれば子どもが希望しない限り親子分離する必要がなくなるんじゃないかっていうのが、フランスの考え方です。
保護した時点でそれまで何を経験してるかっていうことを先ほどの良い結果と悪い結果について分析し直すとですね、心理的リスクぐらいの経験だったら良い経過をたどる子どももいるんですが、保護された時点で、例えば面前DVと身体的虐待の両方を経験している子どもたちは、良い結果を辿ってる子どもはこの調査では一人もいなかったんです。つまりそれから後でいかにケアをしても、かなり深刻な被害を被っていて後遺症を抱えることになったということです。なのでそもそも悪い関係を経験させてはならないということが、予防を中心にした福祉作りに至った背景としてあります。フランスの場合、中学校もセンター試験みたいなものに通らないと中卒にはなりません。一般の合格率が85%に対して、成長の遅れを一度でも経験しているような子どもたちは、15%とかなり低いです。
下の部分の心理トラブルについては、一度心理トラブルを経験してると数年間は治療が必要で、さらに3分の1は成人しても不安定な生活を送り自立できていなかったり、あと精神障害や犯罪傾向とかそういうことを経験することもある、そういった意味で、予防的に在宅で支援をするということは重要だとフランスで言われてます。
パボ:
ソーシャルワーカーの専門誌に掲載されてるので、表紙を描いて、裏に毎週1ページずつターラが載っている。ソーシャルワーカーたちに言われるのは、自分たちがしてることについて書かれてるから、それを読むことで自分たちはいい時間を過ごせるし、一人ではないって思うことができる。さらにソーシャルワーカーに言われるのは、自分の子どもだとか奥さんだとか、家族も読んで、自分の仕事についてより理解されるようになったと言っています。ただ、ソーシャルワーカーを大きく超えて何百万人に読まれてるって訳ではないんです。でも、この雑誌自体は、非常に真面目な文章が中心的なんですが、漫画っていうのは笑わせることができるので、メッセージを伝える上で効果的であると思います。
ソーシャルワーカーたちがしていること、ソーシャルワーカーの仕事の意味を、私はこの漫画を通して守る、伝えることができていると思っています。
[ 一人ひとりが世界を変える ]
質問者:
この漫画を見て、該当するおとなと子どもたちがどういう風に変わっていったかっていうのも、ちょっとお聞き頂けるとありがたいなと。この漫画に出てくる人たちとか、在宅教育支援を受けてる人たちです。支援を受けている子どもたちが見て、その親がこの漫画を見て、どういう風に変わったのか、っていうエピソードがあれば教えていただければと思っています。
パボ:
漫画が出たことによって、自分は期待していなかったんですが、意外と子ども、若者たちが読んで、「親っていうのも結構大変だな」っていうことと、あと頼りになる、話せるおとながいるって、やっぱりすごく大事だよねっていうあたりは、子どもたちに支持されてるポイントだと感じています。
ハチドリの伝説というのがあって、とても小さい鳥なのですが、山火事が起きている時にハチドリはすごく小さい鳥なのに、川から口に含めるだけ水を含んで、炎の上にかける。往復をして。その時に、「なんでハチドリはそんな意味のないことをしているの?」って言う人もいる。でもハチドリは「自分にできることをしているんだ」と答えるんです。私も漫画を書くことによって、世の中を変えられるとか、それぐらい効果があると思ってるわけではなくて、自分にできることをしている、そう考えています。
ハチドリの伝説についてhttps://ovninavi.com/798labo/
質問者:
安發さんが、この本が日本で発行されることによって、全ての子どもが幸せな子ども時代を過ごせるための議論が日本で高まることが目標だと言ってます。クラファンを広めるために私が考えたのは、クラファンに賛同してくれた人が参加できる議論の場を用意してはどうだろうかということです。これに関しては、今日の参加者の方々にもご意見をいただきたいですし、ぜひクラファンが広がるために主体的に関わっていただけたらいいなと思ってます。パボさんにも、今回のクラファンが広がるために「こんなことをやったらどう?」というアイデアがあったら教えてください。
パボ:
自分自身を売り出すということがすごく苦手で、自分について考えても欠陥しか見えないので、どのようにしたらそれをうまく、多くの人たちにこんな面白いことができる、というようなことは言えない。さらにユーモアというものが、自分自身にとっては重大なこと、ショックなことを笑うことで乗り越えるっていうような部分があるんですが、それが日本に共感されるのかっていうことはわからないです。例えばアメリカのジョークは、フランス人は笑えないことがあります。
安發:
ターラちゃんがすごくおしゃまなんですよね、おとなよりも賢くて、でもそれが日本でもあることなんですよ。親があまり頼れなくて、子どもの方がちゃきちゃき動くとか。だからそういった点は、心配ないんじゃないかなっていうふうに思ってるんです。
[ ソーシャルワーカーを人気の職種にする ]
質問者:
今日本の福祉現場は、社会保障社会福祉削減のもと、労働条件が悪いそれから恒常的な人手不足、それから専門性が発揮できなくて福祉の仕事にやりがいが実感できない、やりたい実践ができないことにより福祉の仕事の魅力低下による人手不足、という悪循環の中にあります。福祉を学べる学校も学生が集まらず、どんどん減っています。パボさんからエデュケーターもなり手不足にあるとお話がありましたが、どのような状況ですか。
安發:
人手不足はパリだけの話ですね、でもパリでもエデュケーター専門学校は、いまだに倍率は6倍です。
質問者:
新自由主義的な考え方が広がるなか、給与面以外になり手不足の要因はあるのでしょうか。特に若い人たちの中でも福祉に対する見方や考え方が変わってきてるような感じでしょうか。
パボ:
フランスも全く同じ問題を抱えていて、ソーシャルワーカーは貧しい人や調子が非常に悪い人、そういった人たちを対象にする仕事で、フランスでも人気がすごくあるというわけではありません。だからこそ私がしたいのは、なるべく多くの人に話題にしてほしいということです。ソーシャルワーカーの仕事自体が十分知られているわけではないからです。ソーシャルワーカーの仕事が実際にうまくいくには、かなり発達したテクニックが必要。つまり、とても専門性が求められる。とても良い仕事ができない限りうまくいかない職業です。
だからこそ、世の中で一番美しい職業だと私は思っています。なのでこの職業の美しさを目に見える形で世の中に伝えなければならないと思っています。ソーシャルワーカーを人気の仕事にするために、こういう活動に取り組んでいます。
[ 教育は遠隔ではできない ]
パボ:
質問の距離感について。以前、「ある程度のその距離感っていうのが大事」というようなこと言ったのは、結局その距離感っていうのはおとなを守るだけであって、言い訳であって、実際に自分たちの仕事は子どもを守るっていうのが目的なので、違うじゃないかっていう批判は常にありました。だけれども、結果的には何かしら事件が起きたわけではなく、自分たちの実践の中でやはり距離感ではなくて、しっかり人間関係を築くことによって成功するというような経験が積み重なっていた中で、考え方が変わったと思います。なぜかというと、距離をとった間柄で、または遠隔で、教育は決してできないからです。今は親しさ、「ちょうどいい親しさ」と表現が変わっています。数年前に出た本ですごく読まれた本がありました。「好きになるという動詞を使うことを許す」というタイトルの本で、かなり衝撃的でした。自分の子どもを好きっていうのと同じ言葉を関係が一時的になるかもしれない子どもに対して使っていいものなのかどうなのかという議論を巻き起こしました。けれど結局距離を取っていたところで何も効果を及ぼすことができないということは皆経験上感じてることでした。エデュケーターの仕事はエンゲージメントというのがあって初めて成立するものです。自分たちはエンゲージメントして相手に関わる必要があります。なのでエンゲージメントがあるということは、やはりリスクも起こさなければいけないし、自分自身に関係性を課すという面もあります。そのことについては、ターラから教えられたことがたくさんありました。
ターラとの出会いは、施設で働いてる時にまだエデュケーターになる専門学校に通ってる時に、自分のキャリアの最初の方にターラに会いました。その時にターラはもうすでに数年間兄弟と一緒に施設にいて、お母さんの統合失調の具合は非常に悪くて、お父さんはアルコール障害があってかなり昔に彼女の人生から消えていなくなっていた。当時まだ自分はエデュケーターの専門学校に通っていて、3週間仕事でターラと一緒に過ごして1週間学校に行くという行き来をしていました。彼女は非常に自分にとっても特別な子どもで、そしてターラは自分に父親代わりを無意識で求めているような感じでした。だけど、自分はまだ学生だったので、途中から5ヶ月間違う施設に働きに行かなければいけないので彼女の前から5ヶ月間突然姿を消すことになってしまいました。当時自分はちょうど一緒に住んでいた人と別れた時期でプライベートでも非常に厳しい時期だったので、ターラのいる施設に戻った時にターラからすごく長い手紙を渡されて、その手紙の中に書かれていたことは「どうせ当てになんてできないんだと、私がすごくたくさん大変な時があったのに、その時にあなたはいなかった」って書いてあった。当時まだ自分は子どもがいなかったので、おとなというのは責任がなければいけないんだと、おとなというのは子どもが必要な時にいなきゃいけない、その手紙を受け取った時に初めて自分はおとななんだということを意識させられました。彼女は小さい時からおとなのように過ごさなければいけないような人生を送っていて、子どもとして過ごすことができていなかった。でも自分がおとなじゃないと彼女は 子どもとして安心して過ごせないんだってことがわかりました。なのでそれから先は、自分はおとななんだから責任を持たなければいけない、相手が必要な時にいなくなるって事はできないと思うようになった。なのでターラが自分のことをおとなにしてくれたしエデュケーターにしてくれたと感じています。
漫画だと8歳なんですが、17歳で施設を出るときに一緒に撮った写真です。今も家族の新年のお祝いとかにターラは来てくれるし、子どもが小さかったときはベビーシッターが必要な時は、学生時代だったターラが手伝ってくれてた。
質問者:
子どもが生きづらさを感じている。親子でうまくいかなかったり、虐待があるとか。フランスの背景が私も全くわからないんですけど、その辺ってどうなんだろう。どんなことが原因で、日本と変わらない部分もあるのか、違う部分もあるのかと、思いながら聞いておりました。
[ 施設でも里親でもなく予防的な在宅支援と自宅措置 ]
安發:
短期措置しかないことになってるので、基本的には危険な状況がない限りは措置してもらえないのですが、一番多いのは、13歳以上で、子ども自身が家にいたらうまくいかないというようなことだったり、地方だとかで自分の自宅からだと行きたい高校に通えない、行きたい就職先が見つけにくいとか、そういった自分自身が望んで施設に来る場合が多いということと、パリ近郊だともう1/3は未成年の海外単身移民といって、難民として親戚がフランスにいないのに単身で海外から来てるような子どもたちです。なので基本的に危険がない限りは子どもが望む限り家庭内でエデュケーターも毎日通うとか、全体的な方向性としては危険があったとしても、子どもが家にいる時間にエデュケーターがずっと家にいれば危険は起きないということで、家庭内での支援を優先することになっています。施設にいると親の状況の改善への支援が十分できないんですよ。やっぱり親への支援が限られがちで、親自身が調子良くないままでは、子どもが戻ってきたら元のダイナミズムに戻ってしまうようなことがあったりする。
そして親子を離すことによって、やはり親自身も大きな挫折経験になったり、子ども自身も親のせいで自分がこうなったんじゃないかみたいに感じてしまうなど悪影響が多いから、今はもう自宅措置というような形で、危険があったとしても、子どもが自宅にいるままで、エデュケーターが子どもがいる時間ずっと家で一緒に過ごす、そのことで家族全員に関わるというな方向が取られつつあります。そういった方向性でやっていこうということになっています。
[ 虐待は親への支援が十分ではなかったということ ]
質問者:
親が、子どもに対してこう虐待をしてしまうっていうようなことがやはりフランスでもあるんですか。ごめんなさいちょっとその辺のことがわからなくて。
安發:
虐待っていうのは非常に極端な状況で、親自身が本当は子どもにもっと良く成長してほしいし、良い関係性を築けたいけれどもそういうことが叶えられてないという状況なので、親の負担、悩みが大きい順に、つまりワーカー側がこの人はこれが問題だって思う順番ではなく、本人自身が悩みと感じている順番に一緒にエデュケーターが解決する方法をとります。もしかしたら親の親との揉め事かもしれないし、近隣の人との揉め事かもしれないし、自分の家庭内ですごく大きな葛藤があるのかもしれない。そういった親自身の精神的な負担を取り除いていくと、親はもっと自分がしたかった子どもとの関係性を築ける余裕が出てくる。そういった考え方をします。
[ なりたい親になるのを支える保健省の「親を描いてみて」]
質問者:
子育ての時に、親がうまく子どもとの関わり方っていうのを学べてないというか、知らないというか・・・最近の日本の問題じゃないですけど、そういうところでまあ私は感じたりとかしていて、なんて言うんですかね・・・
安發:
自分の親が自分にしたこと以外の親としての接し方というのは誰も学んでないわけじゃないですか。その時に、「どういう親になりたい」というのを実現するのを、専門職が支えていけばいいよね、というような考え方ですね。なので保育園とかもただ預かるだけじゃなくて、幼児エデュケーターだとか小児看護師だとかがいて、幼児エデュケーターの人たちは親としての役割だったり、親と子どもの愛情あるコミュニケーションだったり、そういったことを学んできてるので、はなから「親だからできるでしょ」といった言ったことを考えられていないということと、子どもが生まれれば母性だとかが出るって事も全く否定されてるので、「自分でやりなさい」じゃなくて、「こうしたいんだったらどうすればいいだろうね?」とやりたい子育て、なりたい親の姿を一緒に探す。「親をすることデスク」っていうのが保健省にあるんですけど、そこのキャッチコピーも「親を描いてみて」です。つまり親教育とかじゃなくて自分がなりたい親っていうのはどんなものか自分で描けるように支えようという考え方です。
[ 専門職の早期対応、評価されている点と批判 ]
質問者:
日本で教育と言った時に、いわゆる教科だったりそういうのがまだ大事にさていて本当にそういう幸福な親子であるみたいなところで今言われたみたいに産んだから親になれるっていうわけじゃないっていうところを学ぶっていうのがないまま親になってなんかこううまくいかないっていうのは、別に保護されてる親子に限らずいっぱいあるなと思っているので、どんなことができてるといいのかなと日々思いながらちょっとフランスのことを聞かせてもらいましたありがとうございます。
安發:
私とかは、保育園の先生にだいぶ叩きのめされて、自分なんてもう全然素人だし、自分のことばっかり考えてて子どものことを優先しない判断をたくさんしてきた、みたいなことを思い知らされて、だから自分がまた間違えるかもしれないからちょっとおかしいなと思ったりしたら相談してみようみたいな感じになってる。専門職だからこそ気付かせてくれて、自分が間違ってたなって思うことがたくさんあったので。例えば児童保護専門医っていうのが保健所にいて、全ての保育園を巡回してるんです。私の利用していた保育園の場合は金曜日の午前中にいつも来るんです。子どもたちの記録や状況を見てるんです。私は子どもがちょっと便秘気味だなとか、ちょっといきむ時に泣いたりするなと思ってたんですが、すごく忙しかったし、そのままになってたんですよ。そうしたら、ちょっとお尻が裂けたのか血が出るようになって、児童保護専門にめちゃくちゃ怒られて、「こんなになるまで放置したのか、赤ちゃんは毎日何回ももしかしたら苦しんでたかもしれないけれど、自分のことじゃないからいいと思ってたの?」と言われて、確かにそうだから、そういったことが何回も積み重なると、何て言うんですか、自分が間違った判断をたくさんしてきたわけなので、話を聞こうと思うし、全く知らない専門職であったとしても、あんまり抵抗感はなくなります。
もちろん批判もありますよ。例えば、3歳から落第もするし、今日も娘を6歳健診に連れて行ったんですけど、学習面とか心理面とかすごいチェックされるんです。私は別に今6歳で 12と21の区別がつかなくてもいいじゃないかって思うんですよ。そのうち8歳9歳とかで大体分かるようになったらいいんじゃないって思うんだけど、向こうはすごく細かく、「医療的にね何歳だったら何ができるはずだ」とかそういう基準があるんです。そしてすぐに、言語訓練士に行ってください心理士のところに行ってくださいと言われる。
娘が一時すごく怒りっぽかった時期があって、怒りっぽかったからと言っても心理士さんのとこ行ったりすると時間もかかるし大変じゃないですか。でも実際に連れていくと心理士さんに「周りのお母さんたちに比べて私がすごく疲れてる」と言う。娘は「自分がすごい悪い子だからママは疲れてるんだろう」と娘は思ってたらしいんですよ。そんなこと親子で話したことがなかったので、心理士さんのところに行って初めて「そう思ってたの」ってわかった。「私が悪い子だからママいつも疲れてんでしょう」って言って、それでフラストレーションからすごく私に怒ってくるっていう状況だったみたいなんですね。
でも話し合って初めてお互い分かることがたくさんあったので、やっぱり最初は行かなきゃいけないのだろうか?と思ったけれど、行って解決して良かったと思うことがたくさんありました。
日本の施設の子どもたちが、18歳で読み書きができないとか、明らかにすごく大変な状況なのに1回も病院に連れてってもらってないとか、そういう子どもたちに日本でたくさん会ったので、それに比べると、すべての子どもの成長をちゃんと確認し、権利を守ろうとしていて、子どもの平等な成長を守るためには意味があるんじゃないかなと思っています。
パボの本の紹介ページはこちらhttps://greenfunding.jp/thousandsofbooks/projects/6908